歴史・沿革

歴史・沿革kousaka-rekishi

昭和13年6月「早大在京勿来会」発会式
昭和14年正月「平稲門会」発会式
歴史と伝統ある「いわき稲門会」は在学生が結成。
(元衆議院議員 故上坂昇さんが記事・写真提供 )Scan10004 ookumadouzou Scan10003 atami Scan10001yaguti Scan10002 tukiji

 

平稲門会結成の動機
私が早稲田大学の第2高等学院に入学したのは、1937年(昭和12)3月であるが、その同年に入学したのは12名で、磐城中学から一挙にこれほど大量の入学を出したことはなく、例年の入学者は多くて3~5名だった。
当時の在学生・新入学生をあわせると、磐城地方からの早稲田マンは31名を数えた。磐中の卒業年度に6年間の差があり、年齢にもかなり差があったが、殆ど同じころに高月の校庭で青春を過ごした仲なので、「おい、お前」という遠慮のない付き合いで、結束が固かった。
磐城地方出身学生に呼びかけて、昭和13年6月23日に、東京築地の料亭で「早大在京勿来会」の発会式を行った。この式には在京の先輩も何名か出席してくれたのである。早大在京勿来会は、大先輩との懇親会、箱根旅行、熱海温泉旅行、卒業生の送別会、新入生の歓迎会などを実施した。
このような活動のなかで、故郷に「稲門会」を結成しようという気運が高まった。
帰郷の際に先輩宅を訪問して「地元稲門会」結成を呼びかけることになった。
学生の熱意が生んだ平稲門会の発足
いよいよ故郷での大先輩宅訪問が始まった。
当時磐城地方の政治経済・文化のリーダーだった各先輩は、学生の熱意を快く受け入れ賛同してくれた。
翌年の昭和14年正月には、平・谷口楼で「平稲門会」の発会式を盛大に開催できた。「平稲門会」という名称になったのは、平市が磐城地方唯一の市制をしく中心都市だったからである。
昭和14年1月7日、磐中2回卒の比佐昇平先輩を筆頭に、磐城地方における各界の名士が顔を揃え、学生を含め50余名で「平稲門会」の歴史的発会式が行われた。会長には、後に代議士になった関内正一氏が選ばれ、結成万歳の三唱後、盛大且つ賑やかな宴会となったことを覚えている。
発会式の写真は残念ながら残ってないが、第2回総会(昭和15年1月6日、谷口楼)の写真には、新田町の綺麗どころを含めた懐かしい46名の姿が写っている。
しかし、日中戦争に続き太平洋戦争に突入し、会が休眠
先輩たちの出征に続いて、学徒出陣の言葉が示すとおり、学生も学業半ばにして還ることのない戦場にだされ、当然平稲門会は休眠の時代に入ったのである。
いわき稲門会の復活 名称を変え再出発
戦後の混乱期を経た数年後、平稲門会復活の第1回総会は、昭和26年の7月30日だった。錚々たる諸先輩が顔を揃えて45名を数えたが、学生の姿は全くなく、綺麗どころも皆無であった。
しかし、関内会長を中心に再び集まれた喜びにひたった。
平和の大切さと安堵感のなかで、酌み交わした胚の味はまさに天下一品であった。このとき、新しく出発した会の名称を「いわき稲門会」と改め、戦前のような磐中・平商卒や生家を磐城とする者の集まりのような在り様を脱皮し、時代の進展に応え文字通り浜通りの早稲田の同窓生を網羅する組織となった。
以来「いわき稲門会」は、浜通りの早稲田大学卒の同窓組織として、連綿と60数余年にわたり交友を重ねてきている。今想えば学生の発案で誕生した稲門会である。在学生も参加する「稲門会」になることを希望して、稿を閉じる。
氏名 在学 磐中卒業 早大卒業
鈴木 七雄 文学部 30回 昭和17年
岡崎 光一 専政経 32回    17年
柏原 武三 専政経・商学部    17年
小林 忠司 専政経    15年
小宅 将夫 政経学部    14年
須田  正 高 師    14年
矢内 精一 理工学部    15年
安島  肇 法学部 33回    14年
高岡  博 政経学部    15年
石坂 光雄 専 商 34回    14年
菅原 富夫 法学部    17年
鈴木 英賢 専政経    12年
長谷川敏夫 商学部    16年
橋本  久 専 商    13年
蛭田 礼三 専 商    12年
三浦 辰雄 政経学部    15年
山形  皋 商学部    16年
秋元 且吉 専 商 35回    14年
阿部 元彦 専 商    15年
小宅 節男 法学部    17年
菅波 俊雄 専 商    16年
山口 広慶 政経学部    18年
猪狩 一元 専商    14年
上坂  昇 第2学院・政経学部 36回    17年
吉井 利長 専 法    15年
鈴木 節長 高 師    16年